日本IBM東京基礎研究所特別研究員

NEC日本電気中央研究所主任

神奈川大学理学部専任講師

蟹.I.I.代表取締役会長 CEO

 

 

 

学歴のページに続き、職歴も解説をしておきます。

「大河ドラマ」も、いよいよ、前半の佳境に差し掛かるといった風情でしょうか。

内容は、やはり、全て、事実に基づいています。

 

 

 

IBM

この記事は、学歴のページからの続きです。

 

アメリカ留学から帰国して、元の古巣である東大の科学史・科学基礎論博士課程に復学しました。

(留学中は、休学届を出していたのです。)

で、さっそく、職探しです。

その時点で、大きく分けて、2つの道がありました。

一つは、東大で大人しくしていて、どこかの大学へ科学基礎論関係で潜り込む道。

もう一つは、アメリカ留学の経験を活かし、自分で積極的に数学関係の職を見つけてくる道です。

前者の場合は、東大に残る可能性も込みです。

逆に、後者の場合は、大学だけではなく、どこかの研究所の可能性もありです。

 

閑話

博士号を持ってますから、もはや、普通のサラリーマンにはなれません。

そもそも、最初から、なる気がない。

しかし、国立や大手企業の研究所は別です。

1種のサラリーマンと言えるかもしれませんが、やはり別儀でしょう。

採用が別枠ですし、出勤はフレックスタイムでしたもの。

(1986年当時、フレックスタイム制は、少数の大手企業の研究所だけが採用し始めていました。)

研究所の移転以外、転勤もないし。     ┫

 

で、例によって例のごとく、オリジナルなルートを歩む山口様。

大人しく待っていれば、東大の可能性があったかもしれないのに、虫が疼きます。

(正直に言って、古巣の東大に、すぐに空きがあったわけではありません。

しかし、何年か後には、東大の可能性は十分あったと思います。)

何かが、“跳ねろ”と囁きます。

なにせ、自信満々で帰国してます。

俺抜きで社会が成り立つかという自負。

早い話が、エリートがスーパーエリートになって帰って来た気分。

 

というわけで、色々と可能性を探りました。

日本の大学の数学科の公募を見てみたり、

電総研に遊びに行ったり(高校の同級生やイリノイ留学で知り合いになった研究者がいました)、

企業を訪ねたり、

親の知り合いに頼んだり、と様々です。

 

で、最初に食いついたのがIBM。

というよりも、夏に帰国して、色々と資料を見て、(暑いから!)秋になって最初に行った会社が日本IBMの本社。

(やはり、アメリカ帰りです。)

当りを見るのが目的だから、予約も何もなし。勿論、その年の採用は終わってます。

表玄関から入って、受け付けに来社理由を告げると、その場で、いきなり、人事部に通されて、部・課長あたりと面接。

お互い、様子を探って、その場は別れました。

この時、かつての、大学5年の時の経験が、チラッと頭を掠めたのですが、今回は本質が違います。

なにせ、私が主導権を握っていて、この時点で、すでに配属先まで一意決定してます。(研究所です)

要は、お互いに、YesかNoか、それだけです。

 

その後、しばらくたってから、というよりも、割り合いすぐに、返事が来ました。

研究所の方に、私のアメリカでの研究内容の説明を兼ねた面接に行くようにと。

そこで、行って、説明して、研究所内を見学して、幹部連中と近くのホテルでお茶して、帰ってくる。

これで、1社は確保です。

しかし、内定で縛られるような山口様ではありません。

次のターゲットを物色します。

しかし、しかしですよ、ここが日本だという点を忘れていた。

(あの大学3年の悪夢をケロッと忘れていた・・・。)

アメリカの感覚が残っていたのです。

むこうでは、就職活動は、博士の勝手、自由です。それと同じ感覚でした。

この村社会のネットワークや、囲い込みを過小評価していた。

 

その結果、どうなったのか?

以下のようになりました。

 

次のターゲットということで、親を通じて、某衆議院議員に会いに行った。

どこか、大学や研究所関係で良い職はありませんかという挨拶回り。

秘書に会ったんですが、向こうにしたら、おぼこい鴨が来たという感じ。

そこで、うっかりと、IBMの名を出した。

こちらとしては、再度、IBMに話を持ち込まれては堪りません。

 

その後、IBMの反応がオカシイ。

勿論、議員の方からは、何の紹介もなし。

この現象から、逆に推測すると、政治家からIBMに何らかの連絡がいったのか?

それとも、IBMが付け馬を付けて、私の行動を探っていたのか。

いずれにせよ、これはマズイということで、以後、大っぴらな就職活動は控えました。

(さすがに、いくらなんでもね。)

 

 

閑話

教訓、その1:実力のある人材は政治家にものを頼むな。嫉妬で邪魔をされ、まとまる話も壊れる(可能性がある)。

教訓、その2:壁に耳あり、障子に目あり。実力があると、動向が相手に筒抜けになる場合がある。

 

実を言うと、アメリカから帰国して、職探しを始めた頃から、私の周りに、(私にしたら)不審な人物が徘徊し始めました。

但し、1人ではありません。かなりの数が集団で連係プレーをしてます。

今流の言葉で言えば、集団ストーカー状態。

これは、アメリカ帰りのスーパースターにファンがついたのか、それとも就職関係か、それとも・・・。

日本の村社会では、何が起こるか判ったもんじゃない。

ということで、一度、近くの警察署に相談に行きました。

しかし、例によって、我々の関知するところではないとの返事。

仕方ないから、以後、自分でストカー対策を実行することにしました。

(具体的に、何をやったのかは秘密!)

その影響が、今日まで、尾を引いてます。

(しかし、警察は、やらないと言っておいて、裏でこっそり調査することもあるのですネ。マ、警察だけというわけじゃなさそうだけど・・・。)

これ、自意識過剰なんて、柔な話じゃ無いですよ。

エリートの皆さん、気をつけましょう!  ┫

 

で、結局、どうなったのか?

どうもなりません。

IBMとの契約書類が、いささかヤヤコシクなっただけです。(アメリカ式!)

最終的には、正社員ではなく、大学へ帰ることを念頭においた、“特別研究員”という身分で契約の運びとなりました。

この身分は、本当に“特別”でした。

1年契約で更新していくことになっていましたが、途中、こちらの都合で、いつでも止めて良いという内容です。

あの当時、他に誰も、このような身分でIBMと契約した博士はいなかったと思います。

恐らく、現在でもいないでしょう。

まして況や、日本企業においておや。

オヤオヤ。

 

誤解のないように、少し、説明をしておきます。

今でこそ、契約社員というのは普通になってますが、それでも、どこかの組織から派遣されるのが普通でしょう。

それに対し、あの時、私は、個人でIBMと契約したのですよ!

しかも、身分は東大に残したままです。

つまり、まだ院生なのに、(アメリカの大学の博士号をもっている御陰で)IBMの研究所と個人ベースで契約したのです。

勿論、ポスドクの奨学金や大学への研究助成費とは原理上、異なります。

金額も、マアマアだし、そもそも、全額、私の懐に入ります。

正社員と同じように、研究所に机があって、出社するのです。

アルバイトでもなければ、臨時職員でもないという極めて特殊な身分。

計算機関係なら、自分の好きな研究をしていいのです。

他人の仕事を手伝うわけでもなければ、上から仕事を命じられるわけでもない。

研究所内の誰かとプロジェクトを組む必要すらない。

私の勝手、自由、能力まかせ。

どうです、サラリーマンの皆さん。

これがスーパーエリートです。

 

かくして、1986年の4月から日本IBMの研究所(現在の東京基礎研究所です)に通うことになりました。

(あの当時、研究所は、“サイエンスインスティチュート”といって、千代田区三番町にありました。)

3月まで、就職活動に関し、まだ、色々と細かいことがありましたが、それらは省略します。

ただ、大学の某教授から、“出処進退はハッキリするように”という皮肉を言われたことを今でも覚えています。

なんだ、全部、ばれてるジャン。

マ、君らにエリート売買される気はないわ!

 

で、IBMに通い出して、当時流行だったPrologというプログラミング言語の基礎理論を研究しました。

 

閑話

実を言えば、帰国直後から、4月にIBMの研究所に出入りするようになるまでに、論理型言語の基本的な勉強はしておきました。

これは、私の専門が論理だった関係と、就職絡みが主な理由です。

しかし、なぜ、Prologか?

実は、あの当時、日本が世界相手に“第五世代コンピュータ”というアドバルーンをぶち上げた直後で、マスコミ、その他の媒体で騒がれていたからです。

(当時の日本は、バブルの初期でした。威勢がよかった。)

 

ところで、一般的に言って、普通の数理論理学者は、プログラム言語なんぞに手を出しません。

今更、実用なんか追えるかという雰囲気。

「純粋理論が穢れる」程度に思っています。

(これこそ、数理論理屋が、計算機の世界で役に立たない理由です。心を入れ替えないと・・・。)

けれども、この私は、何となく、Prologの基礎理論に引かれた。

それだけ、頭が柔らかかったのです。

(しかし、あなたならやりますか?いい歳をした博士が、今更、自分の専門以外の分野を。)

 

勿論、研究を始めるまでは、海の物とも、山の物とも判りません。

でも、何故か、始める前から、気になってしょうがない。

そもそも、帰国後、なぜ、真っ先に、IBMに足が向いたのか?

素直に、大学で、数学か科学基礎論関係を探すのが普通です。

 

結論を言えばですね、ここで、再び、あの『天命』が顔を出すわけです。

今、振り返ってみれば、そうとしか言いようが無い。

何かが、私に、計算機関係をやるように導いた。

これです。これを言いたかった。       ┫

 

IBMで2カ月ぐらい研究したところで、当時のPrologの基礎理論から見れば、画期的な新理論を社内で発表しました。

(この時点では、アイデアだけです。論文の形に纏めるのに、3年かかりました。)

これは、言わば、計算機の世界の住人である論理型言語と数学の世界の住人である公理的集合論のブール値モデルとを合体・融合(フュージョン)させた理論でした。

これを社内発表した直後、なぜか、突然、日本電気(NEC)からヘッドハンティングの電話がかかって来ました。

研究所の所長から、直接、うちの研究所へ来ないかというお誘いの電話です。

今すぐにでもという話。

これには伏線があって、就職活動中に、親の伝手で、NECの子会社の社長と会っていたのが表向きの理由です。

しかして、その実態は、・・・?

そう、勿論、私の研究の効果です。

情報技術の世界は、本当に、情報の通信速度が早い。(上手いエスプリ)

どこから、どう伝わったのか、ライバル会社が、ちゃんと、聞き付けてる。

(勿論、私はバラしてません。)

多分、アメリカのその筋も知っていたでしょう、私の発表直後から。

これは何かありそうなアイデアだなと。

 

で、最初は、IBMとの契約が1年あるからと言葉を濁していたのですが、なぜか、IBMの研究所内の空気が変わっている。

これも、私の研究結果の所為でしょう。

つまり、研究者の嫉妬ですな。

しかし、中には、私の仕事に興味を抱いた研究者もいて、その後、しばらく、私の結果と関連した研究を続けていました。

彼には、研究者として、観る眼があったのでしょう、キット。

(それが証拠に、現在、彼は、東大に移っています。)

 

で、1週間ぐらい考えました。

このまま1年、IBMにいるか。

(IBMの上司は引き止めましたよ。

研究所長にも、ヘッドハンティングの件で面接したし。

隠さない処が、流石、山口様です。

どうです、この自信。)

それとも、すぐにNECに移るか。

(一応、NECの研究所にも面接に行きました。)

大学はどうするか?

(丁度、数理論理学関係の研究会が開かれて、私も行ったのですが、会議後の懇親会で、名古屋工大あたりの話がチラっと出ました。

意味深なタイミングです。

しかし、これは、毛バリかどうかの判定がつかず、食い付きませんでした。

多分、本物の餌だったと思いますけど。)

東大の籍は?

等々・・・。

 

普通なら、そのまま1年間はIBMにいます。

で、その後、改めて、行き先を決定すればよい。

(その時点で、NECは1年待つと言ってました。)

東大の科学基礎論課程の教授も、何となく、それを望むふう。

(大学関係も、数理論理系と科学基礎論系で一本化してないことが観て取れます。)

あまりにも短期で移るのは、履歴上も変に見える恐れ、これあり。

 

しかし、そこは山口様です。

それまでの経歴も、いささか常識を外れています。

ならば、ついでに、この際、も一つ外して、箔を付けとこうか・・・ってなもんで、NECに移ることにしました。

 

これが、IBMに行きだして、3カ月目です。

本当に実力のある人物は、凄い世渡りをするもんだ!

 

 

 

 

NEC
というわけで、1986年の7月から、NECの中央研究所に移りました。

詳しく言うと、当時の“C&Cシステム研究所”。

(今は、組織がどうなっているのか知りません。

ちなみに、中央研究所は、いくつかの研究所の集まりです。)

場所は、川崎市の宮崎台。

(東急の田園都市線です。

二子玉川園と多摩プラザの中間ぐらい。)

最初は本郷のマンションから通っていましたが、通勤が大変なので、近くに引っ越しました。

(高知から上京して以来、都内から引っ越すのは初めてでした、留学以外は。)

 

ところで、信じられないかもしれませんが、この時点で、まだ、東大の大学院に籍がありました。

そのまま、NECに入社したのです。

身分は、嘱託。

(ヘッドハンティングしたのなら、それなりの呼び名をつけろよナー。

定年後の再就職みたいに聞こえるじゃないか、世間には。

IBMほど融通が利かないわけか、日本企業は。)

最初、3カ月ぐらい、様子見です。

NECも、またすぐに、辞めるかもしれない。

実際、大学に移る可能性もありました。

事実、私の周りでは、そういう臭いがしていたし・・・。

(これじゃ、何のために移籍したのかと思う人もいるでしょう。

しかし、新たな引き抜きが来れば、どうなるか判りません。

それが実力社会というもの。)

 

けれども、流石に、というか、やはりというか、すぐには声が掛からなかった。

(日本です。日本。)

で、少し腰を落ち着けて研究ということで、正社員になることにしました。

これが、確か、秋。10月か11月。

身分は、主任研究員。

この時、やっと東大の籍を抜いたのです。

(これで、東大も肩の荷が下りたことでしょう。

しかして、その実態は・・・?

大物を逃したのじゃ!)

この時期に、東大の大学院の籍を抜くような真似をした人物は、(病気か犯罪絡み以外は、)私が最初で最後かも・・・。

(当時は、帰国子女の扱いとか、秋の卒業なんて無い時代ですよ。

総て、一律に、処理する時代です。)

 

閑話

以上が、私の大学院生活が長かった真相です。

詳しい履歴書では、大学院の籍は、就職した時期とオーバーラップしている。

これは、書き間違いではありません。

間違っても、

「能力の無い所為で、単位が取れなかったのだ」

などという妄想は抱かないように!

その正反対です。

平均的な研究者と比べると、能力が有り余っていたのです。

また、これで、私が履歴の解説を長々と書いてきた理由の一部が飲み込めたと思います。

歴史に真相を残しておかねば。        ┫

 

さて、NECでの研究生活ですが、これは、IBM時代と、それほど差はありません。

勝手気侭。自由放任。押し付け仕事、一切無し。

強いて差を挙げれば、IBM時代は定時出社+定時退社してました。

残業が付かなかったからです。

一方、NECでは、フレックス制が導入されたばかりで、十分に利用しました。

しかも、残業が付いたので、朝は10時過ぎに出社、夜は8時過ぎに退社が普通でした。

(研究所で昼、夜の2食を食べてました。

夜は夜食ではなく、ちゃんと食堂が開くのです。

そういうシステムになってました。)

 

仕事の内容ですが、他の主任研究員は、それなりに、会社の仕事、もしくは、外部と組んだプロジェクトの仕事をやらされてました。

(私の周りでは、ICOT関係のプロジェクトが多かった。

これも御時勢だったのでしょう。)

その合間に、自分の研究をするという生活。

(主任の上の課長になると、研究よりも、課内調整が主な仕事になります。)

勿論、自分の研究が社内で認められれば、正式のプロジェクトになります。

しかし、自分の研究だけを勝手にやるという研究者は少ない。

(皆無ではありませんが、特別待遇です。)

その意味で、私の研究は、最初から“特別待遇”でした。

普通、主任には部下が付くのですが、私の場合は部下もなし。

(私に人を使う能力がないせいじゃありませんよ。

自分の研究に没頭できる態勢を組織側が整えたわけです。)

他人の助けは不必要というか、そもそも、他人が手助けできる程度の甘い理論ではありません、当時の私の研究は。

 

で、具体的に言って、どの程度の特別待遇の研究生活か?

想像が付きますか?

(大学じゃありません。企業の研究所ですよ。)

以下の程度です。

 

まず、課長の机の前に私の机がありましたが、大部屋なので、殆ど、そこには居ませんでした。

(会社側に、個室をクレと要求しましたが、“主席研究員か主幹研究員じゃなければ駄目”ということで引き下がりました。

年齢が足り無かったらしい。

ケチ!)

どうしたかというと、毎日、出社すると、机に行き先のプレートを残して、すぐに図書室に直行しました。

(研究所内のすぐ近くに、図書室がありました。)

そこで、一日中、論文を書く毎日。

その論文とは、例の、IBMで発表したアイデアの理論化です。

これをNECにいた、丸3年続けました。

それだけ中身の濃いアイデアだったわけです。

 

閑話

実は、この理論は、(当時から、一部の論理型言語の理論屋の間で、騒がれていたのですが、)より広い領域である、“情報・通信・制御”(より一般的に言えば、“工学”、より狭く言えば、“人工知能”)の世界における、特殊相対性理論にあたります。

その詳しい内容について、ここで解説はしませんが、最終的にはゲーデルの理論(不完全性定理)を越える理論になります。

ゲーデルという人は、数理論理学の世界における、ヒーローで天才です。

これは万人が認めています。

ゲーデルの不完全性定理は純粋数学よりも、むしろ、情報科学の分野で、影響が大きい結果で、未来永劫、その呪縛から逃れることは出来ないと思われていました。

(この私が、登場するまでは。)

そのゲーデルを越えるのですから、この私は、客観的に言って、もっと天才ということになります。

信じる信じないは、皆さんの自由です。

「自分で言う天才は眉唾だ。

そんな天才なら、世間で騒がれているはずだ・・・」

と思うでしょう。

しかし、それは、小学生の“偉人史観”です。

 

皆さんは知ってますか?

例えば、ナイロンの発明者は精神病にされて、生前は日の目を見なかったという事実を。

逆に、気が強くて、自己主張し過ぎると、ガリレオのように裁判沙汰になる。

しかし、一方で、上手く立ち回って、出世する天才も実在します。

例えば、ニュートン、アインシュタイン。

実は、ガリレオも、世渡りが上手な方でした。

(宗教裁判といっても、結果は、“貴族の家にお預け”の刑。

おまけに、すぐ、自宅に帰ってます。

「それでも、人類は嫉妬する」のだ。)

要は、自分の才能を自覚し、大衆の嫉妬に気付けば、あとは、その人物の器量次第でしょう。

(孫子みたい。)

もっとも、中には、自分のことを天才だと錯覚する凡才もいますが・・・。

(というよりも、現実には、そのケースが殆どでしょう。

だからこそ、「天才だ」と言われて、「はいそうですか」と納得する人はいないのです。)

ここでは、科学者の例だけを取り上げましたが、どの分野でも、似たようなものだと思います。

 

まとめると、次の結論は、ほぼ正確な帰結と言えるでしょう。

自分のことを天才だと人前で公言する人間には2種類あります。

本物の天才とオカシイ人。

(生前、自分のことを「天才」だと吹聴していた天才は、歴史上、枚挙にいとまがありません。)

 

この辺りで、なぜ私が、「天命」などという、大袈裟な用語を使用してきたか、その真の理由が納得できたことと思います。

私の結果は、歴史に残るからです。

是非、調査してみてください。

ついでに白状すれば、この履歴も、歴史を意識して書いています。

(嘘は書けないよナー。)

さらに言えば、こうやって、上手に世渡りをしています。

私の専門分野で、私を知らない研究者は、モグリと言われています。

最近、世間でも、結構、騒がれ始めました。

当社を利用して、やがて、大金を稼ぐ予定です。   ┫

 

さて、話を元に戻しましょう。

論文書きに疲れると、時々、自分の部屋に帰って、息抜きをする。

(普通は、仕事場で息抜きはしないものですが、私の場合、図書室の方が、仕事場の感じでした。)

秘書をからかったり、研究所内を散歩したり。

時には、庭に出て、芝生の上で横になる。

また、たまには、図書室にあった、プレジデントという月刊誌を読んでリラックス。

(結構、面白かった、あの雑誌は。

経営者の自己満足用記事が満載です。)

 

会社員の皆さんは判ると思いますが、テレビドラマじゃあるまいし、こんな真似が出来る雰囲気じゃありませんよね、会社とは。

しかし、私はやりました、平気で。

但し、時々ですよ、時々。

勿論、仕事中、庭で横になるような度胸のある研究者は誰もいません、私以外には。

広々として、良い気分でした。

(さすがに、来客には見えないように気を使いました。)

 

というわけで、NECにいた3年(足らず)で、アイデアを論文の形にまとめたのです。

(後に、神奈川大学に移ってから、これらの論文をICOTのテクニカルペーパーの形で公表しました。)

これが世紀の大論文とは、神ならぬ身のNECには判るはずもなし。

ICOTですら、理解出来てなかった。

面白いアイデアではあるが、どの程度のインパクトがあるのか判らなかったのです。

(どの程度って、歴史に残る程度ですよ。

あれから、ズット宣伝をしてます。

その所為で、徐々に浸透し始めた、今日、この頃です。

長かったナー。)

現在でも、内容を理解できるプロの研究者数は、世界全体で3桁止まりでしょう。

 

忘れもしません。

NECに移った当初、所長から、

「君は地位がほしいのか、それとも、名誉がほしいのか」

と尋ねられたことがあります。

その時の、私の答えは、・・・、

「両方です」

というものでした。

今でも、そう思っています。

(私は、出世競争に無縁な“世捨て天才”になる気はありません。)

 

目先のセセコマシイことに拘泥していると大局を観誤る。

これは致命的な失敗に繋がります。

この意味で、周囲の目を気にせず、平気で論文書きの毎日を続けたのです。

すごい自信。

自分自身に論文の価値が判っていたからこそ、こういう真似ができました。

普通の研究者には、とても、こういう真似は出来ません。

第一、周りが、それを許さないでしょう。

しかし、私には、それが許されたのです。

つまり、“どの程度の内容か自分達に確認は出来ないが、何か凄いらしい”という雰囲気が当時あったのでしょう。

(相も変わらず、社外では、集団ストーカー状態が続いていました。

これは何を意味するのか?)

 

ただ、このような好意的な雰囲気も、最終的には壊れます。

その理由は、またしても、私に外部からヘッドハンティングが掛かったからです。

つまり、社内に、一人ぐらい、“天才っぽい”のがいるのは、周りの刺激になって良しとするのでしょうが、その人物が、やがて、社外に去るとなると、空気が変わってきます。

(それでも、私は、平気で論文書いてましたけど。

つまり、組織の上層部の意思と職場の同僚の嫉妬は、しばしば対立するのです。)

“サラリーマンは日本全体”とか、“人類”とかいう器で物事を考えることが出来無いのです。

あくまでも、会社が単位です。

というよりも、自分の出世が単位です。

(当たり前か・・・。)

“潰しが利くかどうか”とか、そういう観点で物事を見ます。

これじゃ、真の天才を理解できません。

もっとも、移った先の神奈川大学も、同程度以下の反応ですから、NECばかりを非難することはできません。

(神奈川大学の方が環境は悪かったのです、正直言って。

多分、どこへ行っても、同様でしょうけど、悪貨は良貨を駆逐します。

しかし、本人は、上述の閑話のように、世間の現象を悟った上で利用しています。)

 

というわけで、NECに移って、2年目(結構、早いな)、神奈川大学から打診がありました。

この打診が、また、一風、変っていました。

最初は、神奈川大学の本部の某教授(学長補佐だったかな)の娘との見合いの話が来たのです。

軽い気持ちということだったので、軽い乗りで見合いにいった。

(ちなみに、帰国後、この前後の時期は、かなりの数の見合いをこなしました。

どのくらいって、一々覚えていないくらいです。)

相手方は、当の教授が来ている。

その場の話題は、世間話になりますが、その世間話の中に、神奈川大学へという打診めいたものがありました。

丁度、平塚に新キャンパスを建設中ということ。

勿論、その場では、感触だけです。表向きは、あくまでも、見合い。

こちらとしては、迷います。

これは見合いなのか、それとも、ヘッドハンティングなのか?

どちらが主か?

(相手方にしたら、両方OKなら万歳なのでしょうけど。)

 

そこで、仕方ないから、確認のため、相手の家に遊びに行きました。

この時点では、まだ、見合いの体裁をとっています。

そこで出た話題は、やはり、神奈川大学の新キャンパスのことでした。

フーン、あわよくば、ヘッドハンティングか。

しかし、こちらはNECの中央研究所の主任研究員です。

それほど焦っているわけじゃない。

しかも、相手は、それほどの大学じゃない。

で、少し、探りを入れます。

最大のポイントは、何年か後には、大学を移籍しても良いかどうかという点。

(当時、大論文を書いていた最中です。当然、野心満々です、こちらは。)

この点を、面と向かって、ハッキリと尋ねました。

すると、OKとの返事。

こうなると、こちらにとって、後は、秤に掛けるだけです、NECと神奈川大学を。

いずれにせよ、当座のポストという感覚。

あくまでも腰掛。

ただ、その時点では、新キャンパスは、まだ出来てない。

平成1年(1989年)からの開校ということで、1年以上も先の話です。

つなぎに、明治学院という名前も出ました。

(内心、

「フーン、できるだけ早く、大学に移ってほしいのか。

多分、私のことは調査済みなのだろう・・・」

てなもんです。)

 

この時点での、最大の関心は、移籍後の身分です。

取り敢えず、専任講師という提示でした。

日本で、教えた経歴が無いからというのが、その理由。

(アメリカでは、TAをやってましたが。)

3年後、助教授になるという含みです。

 

その場は、相手側の娘と、辺りを散歩して、引き揚げました。

この時点で、見合いは、完全に、添え物状態。

教授個人の意思だけじゃないことが判ったからです。

逆に言うと、この移籍話はマジだということが判りました。

 

で、当方としては、2つの決定をしなければなりません。

見合いの返事と移籍の返事。

まず、見合いについては、もう一度、2人きりで会うことにしました。

その結果は×。

親に何と言われていたのか知りませんが、本人が気乗りしない様子。

(娘にしたら不満だったでしょう。

自分は餌か・・・ってな感覚。)

こちらも、女の機嫌を取る気は無し。

 

移籍に関しては、それほど単純ではありません。

この時点で、断る気なら、それで、ハイ、さようならです。

しかし、もう少し様子を見ることにしました。

なにせ、時間的余裕があります。

(見合いとセットなら、向こうが断るはずでしょう。)

というわけで、しばらく経つと、神奈川大学側から、新キャンパスで理学部長になる教授、その他の候補者が集まる会議かパーティーか何かの招待がありました。

(詳しい経緯は、もう忘れました。)

とにかく、探りを入れるため、その集まりに顔を出した。

 

恐らく、この辺りからです、NEC側にバレたのは。

(それまでも、付け馬は付いていたでしょうけど、見合いかどうか判定できない状態でした。

まさか、最初から、神奈川大学側がNEC側と取引していたとは考えられません。)

集まりは平日の昼間や夕方でした。

(その後も、何回か集合しました。)

NECから昼間、外出するには、届がいる。

フレックスタイム制だから、早退すればOKですが、私は、(神奈川大学主催の)会議出席ということで許可を取りました。

そうすると、仕事になるんです、これが。

実は、当時、ICOTに委員で定期的に出席していたもので、外出の機会は結構あった。

その他にも、学会とか、会議とか。

研究者なら、これらは、原理上、総て出席できます。

誰も、文句を言わないし、言えない。

課長に届ければ良い。

それで、仕事時間になります。

その制度を利用しました、神奈川大学の集まりにも。

そういう会議っぽい体裁を取っていたのです、神奈川大学側は。

そうやって、囲い込む。

私には、付け馬が付いていますから、早退して、隠れて出席しても、遅かれ早かれ、NECにはバレることが判っていました。

なにせ、1年以上もあります。

この世界の情報の速さは、IBM時代に実感しています。

隠しようがない。

ならば、堂々とバラそうという戦略です。

 

閑話

当時の付け馬は、NEC関係だったのか、それとも、また別の組織だったのか、それとも、本物のストカー集団だったのか?

未だに謎です。

警察関係の可能性すらあった。

(ほら、前に一度、駆け込んだでしょう、警察署に。)

ついでに言うと、現在でも、未だに、付け馬が付いてます。

スーパーエリートに対する追っかけだけじゃない。

ビジネス絡みか?

それとも・・・。  ┫

 

で、その結果、お決まりの社内嫉妬。

しとしとピッチャン、嫉妬ぴっちゃん。

早く出て行けっていう雰囲気。

中々、風情がありますナー。

そうこうしている内に、3年目の秋。

神奈川大学側は、更に、囲い込みにかかる。

新キャンパスの目ぼしい候補者を、神奈川大学本部の非常勤として雇うことになった。

当然、私も非常勤になりました。

NECの主任研究員の身分はそのままで。

つまり、給料の2重取り。

(移籍仕度金か?)

 

但し、この間に、大学院で貰っていた奨学金の返還猶予期限が切れた。

その結果、奨学金を返還しなくちゃならない羽目になりました。

(結構、金額が大きい。)

もう少し、上手に事務的な手続きをしていれば、戻さなくても済んだのに・・・。

(卒業後、一定期間内に大学の先生になれば、返還をしなくてもいいのです。

覚えていますか、私が大学院の籍を長く残していた事実を。)

今でも、これが、祟っています。

これ、本当の話。

 

というわけで、平成1年度(1989年)の4月から、神奈川大学の平塚キャンパスに勤務することになりました。

理学部の情報科学科で、専任講師です。

 

 

 

 

 

神奈川大学

神奈川大学の本部キャンパスは、横浜に近い、東横線の白楽にあります。

一方、新しい平塚キャンパスは東海道線の平塚市の北の外れに位置していました。

湘南キャンパスなんて宣伝していますが、とんでもない。

平塚の秘境の山を一つ潰してキャンパスにしたものでした。

北隣の秦野市との境界に近く、駅で言えば小田急線の秦野の方が、比較的、近い駅です。

金目川を挟んで東海大学があります。

川崎から、ここに通うのは、結構、大変。

 

というわけで、1年目は、秦野市内のアパートで様子を見つつ物件探し。

結局、最終的に、秦野市に一戸建てを建てました。

これが、後に、当社の神奈川研究所になる建物です。

当時は、バブルの真っ盛りで、田舎の土地でも値上がりしていました。

しかし、後に売る際には、もっと上がるだろうと誰もが思っていた時期だったのです。

そこで、建売ではなく注文建築にしました。

設計会社を入れる本格的なやつ。

県立の弘法山公園の下で、南向き斜面の見晴らしの良い高台に45坪、2階建て。

外壁は大理石吹き付け。

(汚れるのは同じでした。

今は、その上に別の吹き付けをしています。)

1階は、別荘のように、丸々、1LDK。

間に、ホテルのような移動式間仕切りがあります。

床暖房・ジェットバス・食器乾燥機は、今でこそ当たり前ですが、当時としては先端でした。

浴槽・洗面所は、車庫上の中二階。

浴槽だけで4畳くらいで、総大理石張りにしたりして。

この出窓から富士山が一望できます。

夜は秦野市街の夜景が見えました。

今になってみれば、このように、少しだけ高級にしておいてよかったですね。

秦野の他の住宅と差別化できるので、15年後、引っ越す際にも、無事、借り手が見つかりましたもの。

 

ついでに言えば、この立地は中々のものでしたよ。

すぐ近くに東名の秦野・中井インターがあり、東京の料金所まで、(渋滞してなければ、)30分です。

目的地までは、首都高に乗ってからの方が渋滞で時間が掛かる有様。

東京のレストランで、夜、食事をした後、ドライブして家に帰るのに丁度の距離です。

逆方向の箱根や富士山も日帰りでドライブできます。

実際、富士の天神山スキー場なんか日帰りでした。

湘南もドライブコース。

良く立ち寄りました、大磯プリンスホテルには。

西湘バイパス使えば江ノ島も近い。

(いつも、渋滞してましたが。)

 

富士の裾野、河口湖にある、FITリゾートクラブの会員になって、日曜日には、よく出入りしてましたよ。

ゴルフするより、スポーツクラブとして、水泳やエクササイズしました。

これが、バブルが弾けて、一度、倒産したんです、御多分に漏れず。

これで、会員権(600万円)が一部戻ってこなかった。

(なお、このFITは、同名の情報系学会とは無関係です。)

 

こういう風に書くと、遊んでばかりいたように見えるかもしれませんが、そうではありません。

どちらかというと仕事熱心な方です。

どれくらい熱心かといえば、

「結婚した方が便利だ」

とは思わないくらいです。

この意味、判ります?

「家で、妻や子供が傍にいたら邪魔」

という感覚ですよ。

だからこそ、今や、こういうことになったわけです。

遊んでいたなら、腰弁連中と、適当に馬を会わせて、神奈川大学で、一生、過ごしています。

また、妻子がいたら、辞職になるまで突っ張ることもなかったでしょう。

第一、そこまでいく前に妻が止めますよ。

御中元・御歳暮なんかも、上手に送ったはずです、多分。

 

どちらの生き方が上手いかは、人の価値観によるでしょう。

しかし、どちらが上流かは、やがて、判ります。

但し、再婚しないわけではありません。

というわけで、話を神奈川大学に戻しましょう。

当然、採用時は幹部候補ですね。

しかし、神奈川大学で幹部になったところで、たかが知れています。

こちらは、日本の、というか、“世界の山口”になるつもり。

米国で、世界標準というのが、どの程度か、経験してきました。

世界No.1も手が届かないレベルではありません。

 

つまり、

「神奈川大学の寸法に合わせて丁度ぐらいになるまで、潰される気がなかった」

ということです。

「あいつはキレ過ぎるから、少し、鈍くしよう」

なんて、平気で集団実行する風潮があります、日本の大学には。

和の思想を捻じ曲げて解釈すると、こうなるという見本。

何も知らない若手が腰弁教授に扇動されて、無邪気に実行するから始末に終えません。

やがては、自分達がやられるとも知らず。

この記事を読んだ後は、素直に覚悟を決めるでしょう。

天才相手に、ここまで跳ねたんですから。

 

やはり、選ぶ職場は大事です。

格違いの場に行くべきではない。

(落ち毀れニートの言い訳にはなりませんよ。

エリート向けの情報です。)

これが、神奈川大学に行った一番の収穫でした。

普通は、これで諦める日本人が多いでしょう。

大学とは、こんなものかと。

第一、能力が足りない腰弁が多いから、

「大学へ行けただけで万歳」

というレベルの連中ばかりです。

世界レベルを狙うとか、歴史に残るなんていう、青春時代の野望は、とっくの昔に捨てています。

予算獲得のため、表面上、大きいことを言ってるだけ。

やってる内容は、殆どが、翻訳か屑研究か事務。

これが日本の現実です。

大学教授と組んだ経験のある企業なら思い当たる節があるでしょう。

 

しかし、私の場合は違います。

来る前から、別の大学に移籍することは、暗黙の、というか、阿吽の了解事項です。

居心地の悪い大学に縋り付く気はない。

というわけで、早速、3年目あたりから、次の大学へ移る準備を始めました。

今回は、ヘッドハンティングを待つのではありません。

つまり、自分で他大学の公募に応募するわけですよ。

すると、バレますね、狭い仲間内の専門分野ですから。

当然、神奈川大学としては面白くない。

どうせ出て行くなら、幹部候補として遇する必要はないと考え始めます。

それが過ぎるとです、

「昇進させなくてもいいだろう」

なんていうコンセンサスが醸し出されたりするわけです。

早い話が、潰しにかかるわけ。

 

最初は、神奈川大学に適合する程度に、ストレスで潰そうとしていたんですよ。

それが、やがて、

「出世させるな」

に変化してきた。

更には、変な噂を流して、本格的に潰しにかかる。

というわけで、その後、神奈川大学では、ズット、講師のまま。

同期の腰弁は教授になっていきます。

できの悪い連中が、一人前の気分になっているのが気に入りませんね、こちらとしては。

しかし、神奈川大学にいる限り、どうにもならないわけですよ。

何とかして出るしかない。

しかし、腰弁連中は、邪魔をして、悪い評判を立てる。

というか、悪い評判が立つように画策する。

最後は、学生まで巻き込んでくる。

これが神奈川大学裁判の背景です。

 

当時の関係者なら皆、経緯を知っています。

口を閉ざして誰も何も言いませんが。

よって、裁判官のボケには判らないわけです、本当の真相が。

「世渡りが下手で、生意気な奴が、自分勝手なことを言っている」

という常識的な判断しかできない。

というか、薄々、判っていても、

「また、世間知らずが一人潰されたか」

程度の認識。

世界を巻き込んで、日本の格問題にまでなる騒ぎに発展するとは夢にも思わなかったでしょう。

世間には常識で測れない天才もいるのですよ、このように。

以後、気をつけるように。

といっても、100年に一度、出るか出ないというレベルの話だから、例外中の例外ですね。

この意味では無理もないか。

しかし、こちらとしては、絶対に、引き下がるわけにはいきません。

 

で、私としては大学を出るしかない。

その為に、かなりの大学に応募しました。

しかし、学外に仲間を作っていなかったので不利です。

その結果、応募した大学は全滅。

意識的に仲間を作らなかった理由は、今になれば、判るでしょう。

やがて、こうなる宿命だったからです。

つまり、

「学会を相手に、戦争することになるかも・・・」

という予感はあったのです当時から。

そのための準備を怠り無いように実施したわけ。

1996年には会社を設立し、98年には株式会社化しておきました。

自分の会社を起こした後の応募は、どちらかというと、市場調査の意味合いが強いものでした。

採用を期待するというよりも戦争準備という位置付け。

 

学会発表でも戦争準備を着々と進めておきました。

旧帝大クラスの腰弁団栗にしたら、論文を書くことが比較のモノサシです。

しかし、今、騒ぎになっている「P=NP?」問題の場合、論文一本で片が付くような甘いものではありません。

そのレベルでは測れない話なのですよ。

既存の専門常識が引っくり返る結末なのです。

歴史的事件です。

相手に納得させるのに10年以上かかったという、目の前の事実を振り返ってみてください。

これこそが、チャチな論文書きにエネルギーを費やさなかった理由です。

英文論文の専門誌投稿なんか欧米の御機嫌取りのようなもの。

「誰か大物を支持し、追従する内容なら、即、採用。

それ以外は、中々、認知されない。」

と相場が決まっています。

そんな提灯記事が書けるか、私に。

そもそも、実力が下の査読者が、私の仕事の真価を細切れ論文一本で理解できるはずもなし。

 

というわけで、日本語で書いた学会発表が私の仕事のメインになっています。

これなら、好きな内容を好きなように書いて、勝手に発表できるからです。

(但し、日本の学会でも素人がアホな発表すると、その後、誰も相手にしなくなります。

つまり、自由に発表できるということは、自滅も覚悟しておけということ。

責任は自分にあるのです。

これこそが、院生が集団発表したり、教授の名前を借りたりする理由なのですよ。

プロ予備軍の卵の世界はキビシイの。

時々、この程度の常識が判らない馬鹿がいますね。)

今頃、英語圏の連中は、さぞ、翻訳に忙しいことでしょう。

だって、「P=NP?」問題を難問指定したので、歴史問題化していますから。

更には、

「私はキリストを超える」

なんて言い出しましたから無視はできないでしょう。

 

但し、Cookの証明の間違い指摘レベルなら論文でも可能です。

しかし、こちらの方はチューリング賞の名誉と言う厄介なファクターが関与してきます。

しかも、相手にとっても死活問題になります、冗談抜きで。

Cook御本尊だけではなく、教科書を書くレベルの幹部連中が、軒並み、討ち死にですよ。

学会で素直に認知されると思う方が、どうかしています、歴史を知っているならば。

 

閑話:

100年前の脚気菌騒動を思い出してください。

日露戦争で陸軍の兵隊は病死するわ、ビタミン鈴木がノーベル賞を取り損なうわ。

後から国内の教科書で美化しても、何の意味もありません。

海外では鈴木梅太郎は無名です。

第一、脚気で病死という事実は隠したいでしょう、政府としては。

だから、逆に、乃木や鴎外を有名にしてカモフラージュしたのです。

この意味で、祟られているんですよ靖国神社は。

第二次世界大戦の特攻で勇ましさを強調しても駄目です。

 

中韓のイチャモンは表面的な現象に過ぎません。

何が悪いのかって?

日本人の“都合の悪い事実は意図的に隠す”という姿勢です。

政府から大衆まで染み付いています。

子孫の場合、知らなければ、それで済むという問題ではありません。

この程度のことも判らないのですか。

例えば、あなたなら、人が殺された部屋に住みますか?

知っている、知らないの問題じゃないでしょう。

但し、知っていれば、避ける人は避けますね。

この指摘で、少しは、真実が見えてきたでしょう。    

 

つまり、こちらも、発表には細心の注意が必要でした。

こういう準備をしているものだから、団栗並みの論文書きが出来ていなかったのです。

すると、腰弁から見れば、採用を見合す口実になりますね。

デキルという噂と、駄目だという噂が、同時に走っている状態では、採否は相手の胸先三寸で決まります。

すると、腰弁が足を引っ張る効果が大きく作用することになるわけです。

減点法。

マ、こちらとしても、自社でビジネスすることが目的ですから、落ちても、それほど痛くはありません。

但し、言っておきますが、行くつもりが無いのに応募していたわけではありません。

大学ですから、行った先でも、IT企業として特許で金儲けすることには何の問題もないからです。

この点、誤解しないように。

 

しかし、今や、戦争状態に入ったので、今更、大学に行く気はありません。

だって、どこの大学の誰が敵なのか判らないでしょう。

相手は姿を隠して攻撃しているわけですから。

それにですよ、格も実力も上で正しい仕事をした私の方が、このように、大学追放になっています。

これでは戦争は終了しませんね。

懸賞金を獲得したレベルでは辻褄が合わないということです。

しかるべきビジネス的勝利を得るまでは。

これの具体的な姿がMSとの特許訴訟です。

納得いきましたかビジネス界の皆さん。

そこらの、ポット出が、運良く、一山当てたのとは格が違うということ。

 

というわけで、10年間は準備段階でした。

この間、日本はバブルが弾け不動産が下落。

売ろうにも、売る気がしません。

身分的には、ズット、大学講師のままです。

「あいつは、出世に興味がないのか?」

なんて勝手な噂を流してくれたアホもいたりして。

その逆でしょう。

人類で一番出世したいタイプだったのですよ。

そして、ノストラダムスの1999年を無事乗り越えて、愈々、2000年になりました。

世はITバブルで、一部の連中が浮かれている最中。

天祐というのでしょうか、「P=NP?」問題がミレニアム難問に指定されたのです。

 

実は、この時点では指定されたことを知りませんでした。

風の噂で知ったのは翌年の2001年です。

それまでの準備は、

『状況依存性で、AIの難問「フレーム問題」を攻略する』

という戦略だったのです。

しかし、これでは、今ひとつ、インパクトに欠けます。

プロ的には、フレーム問題の方が「P=NP?」問題の解決以上に影響力があるのですが、世間的には、今ひとつ。

ビジネスの観点からも、天秤は、やはり、懸賞金に傾きます。

かくして、急遽、目標を変更。

「P=NP?」問題がターゲットになった次第です。

いずれにせよ、状況依存性が鍵なのです。

 

「戦争開始の時点で計算量のことを知っていたのか?」

なんて野暮な質問をする初心者がいます。

知っていましたよ、米国留学から帰国して日本IBMに出入りしていた時から。

だって、当時は、日本IBMの研究所に足立君がいました。

更に、イリノイの竹内君も、バスに乗って、この方面に興味を抱き始めた時期です。

(この皮肉、判ります?)

日本IBMやNEC時代には計算機の基礎として研究しておきましたよ。

ICOTに出入りしつつ。

尤も、論文は一本も書いていません。

寧ろ、知らぬ振りをしていました。

その理由は、今になってみれば明らかでしょう。

そこらの計算量理論のプロよりは、遥かに、内容が判っていたという証拠です。

 

かくして、2000年の春、宣戦布告です。

開戦の公告を開示しておきましょう。

 

布告1布告2

 

これが、今では語り草になった、学内ホームページに掲載した記事です。

それ以外、何の落ち度も無い大学の教員が首になる文章だということ。

今や歴史的資料の位置付けになっています。

(自慢しているわけではありません、裁判に負けましたから。)

内容的には、取り敢えず、神奈川大学の情報科学科と神解連相手の局地戦。

文中、部落とあるのは、近所の神奈川県部落解放連盟のことです。

それまでに連中と喧嘩していましたから。

この点が首の主要因の一つになったことは間違いありません。

こういう連中は骨の髄まで卑怯で、喧嘩を差別に摩り替えるのですよ。

それにより、自分達の行為を正当化しようとするのです。

日本の皆さん気を付けましょう。

 

喧嘩の原因?

私がエリートだからです。

上品なのが気に入らないの。

何とか、自分達レベルの下品さに引き摺り降ろそうとするわけ。

連中にすれば、平均化しているつもりなのですよ。

こう言えば、皆さん、納得するでしょう。

引っ越す前に、土地の由来を不動産屋に聞きました。

しかし、聞いても何も教えてくれなかった。

教えると商売にならないのでしょう、多分。

それゆえ、引っ越した後も暫くは知らなかったのです、近所が同和地区だとは。

(現在は、宅地開発して、色々な人が引っ越してきています。)

 

なお、喧嘩の最中、連中が言うには、

「お前は警察に目をつけられてるぞ」

と。

鸚鵡じゃあるまいし。

どういう意味なのかは判りませんが、言われてみれば腑に落ちる点も多々あります。

一部スト−カーは、どう見ても、組織的に動いていました。

一番興味深い具体例は、

「小田急線に乗っていて、東京と神奈川の境界にくると、実行部隊が入れ替わる」

という点。

連中、それが、こちらに判るように行動するのですよ。

つまり、存在を知らせてストレスを掛けてくるわけです。

勿論、私もストレスを掛け返します。

 

これ、アメリカから帰国して以来ズット続いていました。

アメリカからの付け馬とも違う。

何かの調査なのか?

いずれにせよ、この点が連中を勢いつかせた部分はあります。

警察が自分達の味方をしていると錯覚するんですね。

「我々は正義の味方だ」

とか。

アホくさ。

これが事実なら、警察ごと悪。

集団ストーカーで犯罪行為。

ひょっとして、盗聴なんて真似も平気でしているかも。

人間、徒党を組むと心理が変わりますから。

 

文中、学生Nというのが登場しますが、卒研指導の学生の一人です。

彼には、記事にすることを前もって言っておきました。

つまり、本人も書くことを承諾済みだということです。

冗談ではなく、事実です。

教授に対する罠だという意識はありませんでした。

しかし、結果は、このように、見事に馬脚を現しましたね連中は。

兎に角、すでに、この時期、こちらの落ち度を鵜の目鷹の目で探っている最中です。

待ってましたとばかり、いい餌になったわけです。

判りますか、状況が。

戦争を始める場合、一方的な理由なんてないのですよ。

必ず、相手にも、それなりの原因・要因というのがあるのです。

この場合は、

「私が戦争を始めなくても、すでに、追い出し工作が始まっていた」

ということです。

貴方なら、我慢して、ジット、待ちますか?

 

で、あそこまで書いた時点で、学内ネットが遮断されました。

教授会の意思です。

ならばということで、別の評価基準を採用してみました。

つまり、この記事を受け持ちクラスの学生にアンケートとして見せたのです。

そして無記名形式で感想を回収しました。

50、60人の1クラスだけ実施して、15名から解答が返ってきました。

その内訳は、

「賛成、もっとやれ。」

という学生が13人。

反対意見を述べたのが2人でした。

この事実を、どう見るかです。

勿論、教授側は、この結果を完全に無視しました。

逆に、このころから、学生の取り込み工作を始めた感じ。

以後、私の卒研の邪魔までしてくる。

用意周到ですね。

なお、これは裁判資料としてコピーを提出しましたが、裁判所でも無視。

相手弁護士側は、逆に、証拠能力を疑う始末。

アノネー、こういう資料を裁判で提出するのですよ。

嘘付いたら犯罪でしょうが。

 

それから後は、当社のサイトで、続きの記事を書いてきたわけです。

筋金入りですね。

腰弁連中が何を言っても、途中で止める気なんか毛頭無し。

戒告も糞もあるかという態度。

だって、一度、戦争を始めたら、もはや、後には引けませんよ。

後は、勝つか負けるかです。

こちらが、途中で止めても結果は同じです。

逆に、怒鳴り返したりして。

「最後には首になるぞ」

と警告するから、こちらも、負けずに、

「最後には裁判になるぞ」

と言い返す。

一歩も引く気がないのだからしょうがないでしょう。

 

まだまだ衝撃の事実が多くあります。

大学が追い出そうと目を付けた相手に、どういう行為を仕掛けるかです。

詳しい内容は裁判資料として残っています。

さすがに、このサイトで、そこまで公開するつもりはありません。

しかし、歴史には資料としてキチンと残りました。

目出度し目出度し。

でもないか。

この時点では裁判に勝つ気でした。

日本の裁判官が、ここまで馬鹿だとは、夢にも思っていなかったからです。

負けた局地戦の資料を見せて、どうこう言っても、負け惜しみに聞こえるだけでしょう。

それよりも、歴史的大勝利を納めた資料について堂々と開示する。

つまりは「P=NP?」問題関係の資料です。

戦域を世界に拡大した情報世界大戦。

これで、タップリと、敵を攻撃できるわけです。

やはり天才は違う。

 

実は、この時期に書いたブーリアンテストに関する話題は計算量に関係があったのです。

それが後になって理解できるという仕掛けです。

この伏線が判るレベルの知力を持った日本人は一人もいなかったということです。

だって、当時の評判は、

「このベンチマークソフトの、何が、どう、重要で、新しいのか?」

というものでしたよ。

というか、大学の講師がビジネスに色気を出すのは怪しからんという雰囲気。

私はオマンらよりも、もっとビジネスマンだぜ、経営者側で。

中には、言いたい放題、失礼なことを言い出す輩が出現し始めたので、メールで正体を探ったりしました。

すると、その馬鹿が大学に言い付ける始末。

(これが、今に続く、2chの騒ぎの発端です。)

 

おまけに、近所の連中まで、自分達の行為を棚に上げて、大学にクレームを付けていた。

音が五月蝿いと言ったらしいけど、あの連中、こちらの敷地で焚き火をするわ、物を投げるわ。

で、私も、やり返しました。

当然、喧嘩になりますね。

こういうことが重なって、総て、大学側の追い出し工作のネタになる。

連中もこれを狙っていたのでしょう。

社会的に上の立場の相手と対等の喧嘩が出来て、一人前になった気分。

大学を首にしたと思ってからは、憑き物が落ちたように静かになりましたから。

多分、勝ったと思ったのでしょう。

しかし、こちらにしたら、私の勝ちですよ、ここまで来ると。

後は、ビジネスで金儲けだけです。

 

この頃です、インテルに、ブーリアンテストの計測結果を知らせたのは。

2001年です。

同時期に新発売のWindows XPがFSTW機能で、私の特許を侵害していました。

しかし、この事実は、暫く後(2003年)まで、知りませんでした。

そうこうしている内に、やがて、本題の「P=NP?」問題をサイトの話題に登場させました。

サイトで記事を書くのと平行して本も出版しました。

これが御神本です。

これを実験室で書いている最中、隣の実験室の学生を腰弁が扇動している様子。

ガタガタ音を出して気になるので、壁を蹴り返す。

これが、学生の間で有名な武勇伝になって伝わっているわけです、今でも。

最後の2002年くらいになると、辞職勧告を教授会で決議する始末。

これでも自分から辞めないものだから、どうしようもない。

とうとう、2003年の6月に、正式に弁護士を介して、自己都合退職の打診をしてきました。

今なら、まだ、退職金が出るという話です。

 

これに対する私の対応が、これまた歴史に残るものでした。

「神奈川大学在職中に、当社を通じて出した特許の権利関係について、今なら、考慮の余地がある。

裁判になるということは、これを総て放棄するということか?」

と面と向かって言いましたよ。

その正式の返事が放棄するというものでした。

あの時点では、特許で本当にビジネスするとは思ってなかったのでしょう。

神奈川大学も弁護士も社会的不適格ですね。

私が大学を辞めるという意味が判ってないのです、全然。

(Windows XPがFSTWで特許侵害していたことは、判っていたはずです。

おくびにも出しませんでしたが。)

というわけで、自己都合退職を蹴りました。

すると、予定通り、相手は懲戒解雇にしてくる。

それに対し、こちらも、予定通り、退職金を賭けた裁判に突入したわけです。

 

この時点で神奈川大学に復帰するつもりはありませんでした。

裁判の名目は地位保全ですが、目的は裁判をすること。

日本の裁判官が、果たして、マトモな判断をするかどうかの検証です。

どのくらいの金額で損害賠償するかが興味のある争点でした。

少なくとも、退職金+αが妥当な相場のはず。

ところが、結果は私の敗訴で、一文にもならず。

かくして、退職金を棒に振ったことになります。

 

しかし、まだ、名誉毀損の裁判を起こす権利は残っていますね。

相手は、私が社会的不適格とか、言いたい放題言ったわけですから。

それに対し、当然、私も言い返しています。

ビジネスに支障が出て放置できませんでしたから。

しかし、両者、対等ではありません。

私だけが首になり、腰弁連中は、のうのうと、給料を貰っているでしょう。

私がビジネスで金儲けするのは、退職後の個人的能力です。

連中も、全員、大学を辞めるのが、喧嘩両成敗で対等だということです。

だから、現時点では、私だけの名誉毀損になっているのです。

教授の悪口を言うのが名誉毀損なのではありません。

能力の無い連中が、教授のまま、天才の悪口を言うのが名誉毀損なのです。

 

それは、また、後の話題ということで。

ここまでで神奈川大学時代は終了です。

なお、参考までに、授業中のビデオをサービスしておきましょうか。

 

ビデオ1

ビデオ2

ビデオ3

 

これは、2000年に撮影したものです。

学生が撮影したものを、編集せずに、そのまま出しています。

ぶれてるし、光線の具合は悪いし、声もろくに聞こえません。

それでも、生の現場の雰囲気が伝わってきますね。

最近の写真は、趣味のページを見てください。

 

 

 

 

 

I.I.I.

ここからが本編に当たるのですが、現在、特許侵害訴訟の件もあり、生々しい話題は書けません。

やがて、そのうちに続編を・・・ということで、一先ず筆を置きましょう。